ごまかさない

 最近、かなりメンタルがやられている。昨日、散々考えたけども、多分、俺は、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほどに、何もやらない。言い聞かせるとは、つまり説得だが、自分自身に説得するという不条理劇のような光景にもう飽き飽きしている。俺はそんな高尚なことに悩んでいるのではない。俺は、もっと細々とした、些細な、矮小な、卑近な、繊細なことに悩んでいるのであって、どこまでいっても形而下的な文脈から離れることができないのである。哲学的でも、宗教的でも、思想的でも、歴史的でもない、どこまでも生活的な、仕事的な、趣味的な、つまり世俗的なことに悩んでいる。それを先ず認めないことには何も始まらないのではないか。

 

形而下学

〘名〙 形のある事物についての学。物質、植物、動物などについての科学。物理学、植物学、動物学などの類。自然学。

 

 形のある事物についての学。そうか。俺は、形のあるものについて、それがまるで形を超えたようなものとして取り違えたのかもしれない。対象の形状や色彩や配置について、もっと繊細に、鋭敏に、豊かに味わうことを避けていたのかもしれない。兎にも角にも、俺はいつから自分のことを自己や実存と呼ぶようになったのか。俺は俺ではないか。俺には名前があるではないか。俺は俺の名の下に生まれ、そして死ぬだけではないか。或いは、そうした西洋で生まれた形而上学を、なんの手解きも無しに自分でやろうとする愚かさに気が付かないフリをしているだけではないか。

 対象の存在について悩んでいるのではない。対象の意味について、認識について、手応えについて、悩んでいるだけだ。更に言えば、哲学や宗教に逃げ道を見出そうとする自分のことについて、もっと繊細に、敏感に、丁寧に取り扱うべきだ。

 少し落ち着いた。

 誤魔化そうとすればするほどに、俺は俺の形や色を失う。世界の輪郭がぼやける。関係の綻びが見えて来る。認識の脆弱性を感じる。

 ごまかさないこと。それが今手元にある唯一の方法論だ。

 仕事の仕方に悩んでいる、健康について悩んでいる、家族について悩んでいる、友情や恋愛や師弟について悩んでいる、修論について悩んでいる、つまり俺は俺の生きる世間について悩んでいる。それが、今の俺の悩みの形だ。

俺は俺の敗戦処理をしなければならない

 人間関係の悩みこそ、悩みの中の悩みである。人が何かに迷っている。将来のこと、現在のこと、過去のこと。だが、それは結局のところ、彼と彼と関わる人々との間にある関係自体に悩んでいるのである。彼は自分自身について悩んでいると嘆く。事実、彼は彼の犯した罪や過ちについて悩んでいる。彼の現在は、過去の彼の行為や心理に関わっている。あの瞬間に彼の現在の意識が向けられ、彼は、あの時の自分と再会する。そして、その時もやはりあの時と同じように、それをただ黙って受け入れる。流れに身を任せる(小綺麗な言葉だ)という、選択とも決断ともいえない、その場凌ぎ、時間切れ、持ち越し、先延ばし、真の愚かさというものがあるとすれば、まさにそれであるが、もう絶対に後悔する、やってはいけない、超えてはならない一線があり、取り返しのつかなくなる、間に合わなくなる瞬間を、傍観してしまう、その魂の不在感。身体感覚の喪失。焦燥と彷徨と孤絶の感覚。だがそれは確かに、その瞬間、何もかもが終ってしまったということ、諦めと覚悟の瞬間でもあって、絶対的な自由な瞬間でもあったのだ。絶望とは、文字通り、望みが絶たれるということだ。絶望自体に意味は無い。そこには、ただ抽象的な、絶対的な感覚だけがある。全ての望みが立ち消えた後、体が軽くなる。誰からも、何事も期待しない。これから何が起ころうとも、何が起こらなかろうとも、そこに意味や価値を見いだすことは無い。それは、倫理意識からの解放だった。あの境地が、ニーチェの言う「善悪の彼岸」だったのだろうか。あの孤絶。あの諦め。あの感受性。単独者。

 

 だが、果たして、あのまま単独者を生きていたら、俺は一体どうなっていたのだろうか。結局、ずぶずぶと、だらしなく、べったりと、抜け目なく、生きてしまっている現在を、あの瞬間の彼は、どう思うだろうか。私にとって、あの日が、8月15日なのだ。あの日が、敗戦の日なのだ。日本人は戦後処理を誤ったというが、私もまた、私の人生の戦後処理を、間違えるのだろうか。三島由紀夫は、戦後日本人のその振る舞いを、「鼻をつまみながら」見ていたと告白して、絶望にエネルギーを使っていればどうにかなっていたのかもしれないと嘆いて、自害した。或いは、西部邁が自害したのも、同意するしないに関わらず、共感できる話だ。自殺者の心理に共感し、安穏に生き延びる忘恩の輩には一片の同情も寄せない、というのは、それ自体筋道は通っている。

 

 俺は俺の敗戦処理をしなければならない。俺は、あの日、敗けたのだ。俺は、修士論文の提出期限の日が来るたびに、敗戦の悔しさを思い出す。ということは、俺にとって、修士論文は戦争だったのだ。俺自身との戦争だった。俺は、二度、己に負けた。教職を辞した日、2017年12月31日とは比べ物にならない。教職は、己の問題ではなく、適応の問題に過ぎなかった。

 

 2017年の2月のカレンダーを見ると、10日が金曜日になっている。たしか、その日の12時が提出期限だったはずだ。翌週の月曜日だったかもしれない。だが、今は日付の確定は問題ではない。2月の10日から15日頃に、俺は、2017年と2018年に、二度、敗けた。今日が、2021年の12月なので、もうすぐ敗戦から4年目を迎えそうだ。俺は、二度目の敗戦の日、2018年の2月13日の正午を、決して忘れない。俺は、あの日、敗けたのだ。そして、それは、必ずしも、生まれ変わったというような、再誕の日ではない。敗戦の日は、必ずしも、悦ばしい復活の日とは限らない。後悔の日である。懺悔の日である。屈辱の日である。

 

 俺は、あの日から確実に変わった。あの日を、空白の一日とすれば、その翌日から、今日まで数えれば、即ち、1391日である。その落とし前をつけるまで、来年の2月13日に、この落とし前をつける。俺の戦後処理を、その日に完遂する。

記憶の整理

 「恥辱」という言葉を知ったのは、この修論であった。修士論文とは、これまでの自分の生きた生活の、しかも最も他人に見せることが憚られる種類の、「実存」と呼びたくなるような、そういう代物だった。失敗は成功の基、とあっさりとした言い方だが、それは確かにそうである。だが、その時の「失敗」と「成功」の間には、実は何等の関係性も見いだせない。そこに因果関係を見出すのは、解釈者の心理であり、或いは、失敗を繰り返しているだけだとも言える。

 「失敗」とは何だろうか。私にとっての「失敗」とは、親不孝である。それがこの修論が教えたことの一つだ。私は、自分でも思ってもみなかったくらいに、相当に儒学的な思想を有している。話が前後するが、私は、実は修士論文の提出を三度試み、三度目にそれが受理され、今、その修正を延期し続けているのである。私は、指導教官の恩を無限に感じている。学恩である。「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というそうだが、主従とは師弟とも呼び換えられる。親子より夫婦が、夫婦より師弟が関係が深い。この諺は仏教のものなので、そこでいう師匠は釈尊のことなのだろう。

 話が逸れてしまった。私にとって「失敗」とは、親や先生を悲しませることだ。それ位、恩を感じているということだったのだろう。また、恩を返せない、或いは、恩を忘れるというのは、大変心苦しいことになる。ギブ・アンド・テイクの思想から言っても、テイクの総量とギブの総量は同じでなければならない。私は何も封建主義者ではない。それは、まさに後知恵というやつだ。事実、孔子孟子を知ったのは、何もかもが終ってしまった後なのだ。この順序を忘れてはならない。

 恩を受けたら返す。贈り物を受けたら、お返しする。それが永遠に出来なくなる前に、それを果たさなければ、死ぬに死に切れない。

 恩の感覚は、この死の前の感覚を呼び起こす。或いは、死とは、永遠に恩を返す機会を失う忌まわしいことである。テレビで、ある婦人が、自身の病気体験を語った後に、病気が本格的に再発する前にやりたいことを全てやりきっておきたい、と熱を込めて語っていた。否、それは語りというよりも誓いの言葉のように聞こえた。自分に言い聞かせているように、この一瞬の機会を逃すまいと、充実のための充実を求めて、必死の叫びのようであった。私は、彼女のその気魄に圧倒されるのみであった。

 では、この恩を返した後、私は死の準備ができたことになるのだろうか。取り敢えず、心残りが一つ減ったというに過ぎない。死の準備とは(それはプラトンの言葉であると最近知ったが)、少なくとも、俗人(vulgar)のそれは、恩を返し切ることである。死について考えることは、全く別の次元の話だ。私は、確かに、善悪について、或いは、良心について引っ掛かっている。それを腰を据えて考え、また少しずつ実践していかねばならないとも思う。だが、恩を返すというのは、疑いようもなく善きことであると確信してしまっている己を発見する。または、それをしないことには、何も始まらないのだと思い、崇高なものだと感じれば感じる程に、着手することが著しく困難になる。

 今ここに生じている問題は、ここである。それは、私の過剰さである。この過剰さである。この劇的な感覚である。対象と行為の完全な合一を目指すような、そういう激しい感性である。ここには、冷静さの欠片も無い。政治的意図の片鱗も無い。だが、私の無意識はどうだろうか。結果だけを見れば、私は、自分から修論を引き離そうと努めて来た。忘れようとして眼の前からそれを失くした。先延ばししては安心して、直視することを恐れた。また明日やればいい。そういう自己欺瞞に酔いしれた。それにも既に気が付いている。気が付かない振りがもう出来なくなる。私は、あの頃と何も変わっていないと思う。先延ばし。選択をする、しないについて悩み、またその回答を極限にまで先延ばしするという、この総体について判断すれば、それはもう一つの選択である。葛藤が終らないのである。

 葛藤に終止符をつけるのは、恐らく、私の意志ではないだろう。何か切迫した現実だろう。或いは、取り返しのつかない事態だろう。死を覚悟する時かもしれない。

 たかが修論ではないか。何を、生きるだ、死ぬだの話をしているのか。大袈裟なのだ、お前は。そういう声が聴こえてくる。その芝居じみた話し方を止めろ。白々しいから、如何にも胡散臭いから。

 私は、過去の失敗から学ぶべきだ。私の熱情は、余りにも醒めやすい性質を持っているということを、よく自覚するべきだ。熱情によって起動されるべきではないのだ。もう、何の見通しも無い、口だけの「一念発起」、涙ながらの決意表明、感傷的な吐露、無責任で不用意な言動、守れそうもない約束、取り繕ったこと、虚栄、偽善、嘘・・・・・・そういう片鱗をみせた瞬間に、私は己に怒りを覚えるべきだ。口を閉ざすべきだ。謙虚さを強制するべきだ。喝を入れるべきだ。

 忘れていいことと、忘れてはいけないことを区別する。特に後者をよく思い出す。思い出せる状態にする。メモをして、ノートにして、文字をタイプして、データ化する。メモ帳、ノート、PC。まずはそこからだ。

修士論文———ある青春、その別れ

 土着性。土。赤土。大地。根の張った感覚。しっかりと、この二本の足が、五本の指が、柔らかい土の湿り気を感じている。いずれ、遠くない将来、自分もこの土に還るという感覚を、この土の湿り気に感じる、その感覚。土とは、死である。良質な土とは、死んだ者の匂いがする。死んだ者。生きている者とは、まだ死んでいない者、これから死に往く者であり、それ以上でも以下でもない‥‥‥だろう。

 今日、「アーシーな生き方」という言葉をTwitterで見た。辞書で調べてみた。

 

earthy 【形容詞】

①〈(特に性・身体についての)言葉・ユーモアなどが〉あけすけな,粗野な,低俗な,洗練されていない.

②土の,土質の;〈色・感触・においなどが〉土のような.

 

 手触りを求めるとは、手触りを日々実感していないからだ。誤魔化しのきかない事態になるまで待つのは、ただの怠け癖のせいだけでもない。焦燥感の中に生の実感を求めているからだ。他人に迷惑を掛けることで初めて、断絶という形式のコミュニケーションを求めているのかもしれない。破壊的なことを求めているのかもしれない。

 土とは、手触りの異名である。何に、〈土〉を感じるか。身体性。或いは、想像力。泥臭いこと、よく練られていること、きびきびとしていること。何度も反復している内に、体の中に染み付いて、習癖となったもの。精神の形となったもの。そこには、形がなければならない。

 私にとって、最もそれに近い存在は、英語である。日本語(現代国語)よりも、英語、より限定的に言えば、Contemporary Englishである。更にそれは、英国の英語ではなく、米国のそれである。私は、被差別文学が好きだった。そして何より理解に苦しんだのが、恋愛小説だった。推理小説SF小説も全く好まなかった。私が好んで読んだのは、いつも私小説であって、半自伝的な小説であって、生活圏から一歩も出ない小説だった。怪談を好むのも、それは土着信仰のようなものがあるからだ。兎に角、私が文学に求めるのは、土着性であり、土着性に支えられた物語のリアリティであり、現実の困難との関わりである。反ロマン主義的な、ということだろう。それは、恐らく、文学趣味ではなく、私自身の人生観でもある。

 このような感受性が、一体どこからやって来て、私の中に棲みついたのか、思い当たる節が無い訳でもない。誤魔化さないということを美徳にしてみて、随分、自分のことが分かるようになった。自己批判にせよ、自己肯定にせよ、自己嫌悪にせよ、自己信頼にせよ、兎に角「自己」と冠されるような事柄には、懐疑心が宿るようになった。自己改良ということについて、殆ど信頼しないようになった。それは同時に、自己放棄ということや、自己犠牲ということの尊さということにも、それを口にした途端に崩れてしまいそうな、儚さというか、脆弱なものを感じるようになった。態度と自覚との関係は、それくらいギリギリの瀬戸際にあるべきだと、厳しさを求めるようになった。

 で、私は、困難なことから逃げないように心掛けて、案の定、挫けてしまった。不用意としか言いようのない。何か、私には、馬鹿げた正直さがある。愚直さがある。その愚かさを疎ましく思い、その愚かさに己自身の意味を見出している。愚かさとは何か。それは悪とは異なるようである。悪とは卑怯さであり、打算であり、先延ばしであり、偽りであり、策略であり、安逸であり、身勝手さであり、無責任であり、裏切りであり、誤魔化しであり、つまりは政治的な意識である。愚かさとは真面目さであり、素朴さであり、縋りつこうとする仕草であり、つまるところ精神的な様式美である。悪と愚かさが手を結ぶと、とんでもないことになる。反省すべきは悪の方であって、愚かさの方ではない。

 

 何が切実な問いであったのかを簡単に忘れてしまえることが、人間の強さであるというようなことを、私は否認しているのだろう。引っ掛かり続けることの愚かさは、免れないのだと観念する。諦め切れぬを諦めたというような事だろう。この女々しさである。

 

 この女々しさを自己として認め、ネチネチとした感じを洗い流したいと思う。どうにかして、何とかやっていくためには、行為が先になければならない。彼女は一歩も進めない。女々しい男として死ぬわけにはいかない。

 

 飛躍がなければならない。鳥餅のような心理である。俺はもう考えに考えた。考え尽くした。この干乾びた井戸の底には一滴の水も無い。

 

 語学の勉強をしていると落ち着きを取り戻す。それは、依拠すべきものが明確だからだろう。調べ方が分かるからだ。迷った時に、何を参照すればいいのか、どこに何が書いてあるのか分かるからだ。私が自分の語学力について一定の自信を持ち得る範囲は、自分の力量がどれほどかよく分かっているからで、どの辺りの文章なら何を参考にするべきか、誰に聞けばいいのか、その見極めに自信があるというだけである。

 

 或いは、一人の作家について、たまたま大学の指導教官に推薦された一人の作家について、未だに関わっているが、それもやはり、全集を読むということの価値を高く見積もっているからである。ドイツの諺であったと思うが、「自分のポケットの中のように」分かる、という、そういう感覚こそ、信頼という言葉が相応しい対象である。

 

 何かの振りをするのはもう止めよう。薄ら寒い嘘に身を固めるのはよそう。自分自身の卑しさ、厭らしさ、図太さ、不真面目さを切り捨てようとするのではなく、また、それに拘泥して、絡め捕られて、身動きが取れなくなるほどに自分を痛めつけることもなく、見過ごしておくのでもなく、凝視するのでもない、思い出としてとっておく、いつか思い出すときまで忘れておく、保管しておくことだ。

 

 一からやり直す、というような姿勢を止める。そんなことは出来はしないのだから。人生の意味や価値や目的を、何か一義的に定める様なことも止める。あらゆる意思とあらゆる行為に首尾一貫性と首尾一貫性だけを求め、尊ぶような、ドン・キホーテ的な生き方を止める。その場その場で、より良いと思われる判断を下し、自己判断に依らず、周囲の協力者に意見を仰ぐ。絶えず修正をする。想像する。身体性を重要視する。品のないことをしない。不用意な発言をしない。謙虚。楽なことばかりを考えない。人を虚仮にしない。物を大事に扱う。負い目を感じるべきだ。恥ずかしいと思うべきだ。後悔を止めるべきだ。後悔や自己批判を、今すぐに止めるべきだ。それは、後悔しない生き方をすべきだ、抜け目のない、慎重な、そんな子供じみたことではない。自虐的というのを一切やめるべきだ。独断専行というのも止めるべきだ。絶対性というものを、斥けるべきだ。

 

 この躊躇い、不貞腐れ、遣る瀬無さ。ということは、まだ俺は俺に未練があるのだろう。まだ、何とかなると思っているのだろう。自己に対する未練がまし感情を、いかにして綺麗に清算するのか。修士論文

 

 そうか。そうだった。修士論文

 

 修士論文と縁を切ろう。これで最後だ。この冬にケリをつける。2015年から始まった、この一本の論文。7年越しにケリをつける。

 

 それしか方法は無い。青春時代の終わりだ。

パッションの形/現実の形

 私は同僚たちよりも、仕事の仕方に於いて、慎重ではないし、丁寧ではないし、段取りが良くない。では、一体私は、彼らと比べてどのように優れているのか。私にはパッションとパッションだけがある。

 私のパッションとは何か。それはとは、情熱であり、気合であり、何事も真正面からぶつかっていく態度である。ごまかさないと決心することである。貫徹する意志である。約束を交わしたなら必ず守らねばならないと思い、また思い煩うのである。

 では、私の欠点は何か。パッションの大きさに見合わない器量である。知識、技術、経験、知徳体のバランス、云々である。だから、私は、己の欠点を重々承知しておかねばならない。直す直さないの話ではなく、パッションの形と、現実の形を、よく見て、理解しておかねばならない。解決策は、二つに一つだ。パッションを現実に沿わせるのか、現実にパッションを沿わせるのか。

 

美学=生活術

 ブログは、私にとって、思考のホームである。ヘッドホンが、私にとって、感受性の楽園であるのと同様である。英語が、私にとって、自尊心の根拠であるように。

 さて、何を書こうか。言語化する対象を見定めたいのである。読書や音楽鑑賞、映画鑑賞が、恐らくもっとも手早いものだろうとは思う。日々、読み、聴き、観たものについて書くこと。だが、果たして、鑑賞や観察とは、本や音楽や映画にとどまらない。

 何を読むのか、ということを私は考えていた。または、何が素晴らしい音楽で、何が美しい映像であるのか、ということを。だが、それはやはり筋違いであると思い直した。眼に映るもの、耳に聞こえるものは、文章であり、音楽であり、映画である。

 詩的な表現かもしれないが、つまり、私は、目覚めている間、ずっと映画を観ているのだ。人と話をするとき、そこに旋律やリズムを感じる。それは「聴いて」いるのであって、または「演奏」しているのかもしれない。物が置かれている。物と物の間に何かしら関係を読み解こうとする。それはつまり、私は「読んで」いるのだ。私は、思い立って、物と物を並べ替える、組み合わせる。それは、やはりその時、私は何かを「書いて」いるのだ。

 梶井基次郎の『檸檬』のように、大小さまざまな画集を、その背表紙の色が赤や青や緑が、交互に重なっていく。その様子を見て、この檸檬をその一番上に置く。その檸檬は、主人公の鬱屈である。肺尖カタルと借金と焦燥感の凝縮した紡錘形の固体である。そのまま、主人公は丸善を立ち去る。あの檸檬が木っ端みじんに炸裂したらどんなに爽快だろうと想像しながら。今、私はやっと、あの小説の意味が分かった気がする。

 美術教育ということが最近盛んに言われている。よく分かる話である。生活術の法則は、美学の法則と同じである。心理学の法則と生理学の法則が同じ構造を持つように同じである。美学と生理学、生活術と心理術。それは、まさに理論と実践の往還である。そこまで分かった。

 文学論は認識論によって、映画論は人生論によって、裏打ちされるのだろうか。となると、カントを理解しないと、議論が始まらない気がする。

 繰り返すが、人生とは映画である、とは、文字通りの意味だ。

 もっと、色々、読んだり、観たり、聴いたり、味わったりしないとダメだ。

ブログのルールを考える

 ブログのルールを考えたい。これは案外、難しい問題だ。何を書くべきかをきめるよりも、何を書くべきでないかというのを決めるのが良いのかもしれない。

 傲慢なのは承知で書くが、最近、何を読んでも全然感心しないどころか、あろうことか、文筆の優劣について判断している自分に、一瞬後になって気が付くことが多々ある。しかも、恐ろしいことに、その一瞬の判断がきっかけとなり、もうどうにも読み進められないということになる。

 映画評論家の淀川永治さんは、余りにも映画が好きすぎて、どんな映画も貶したことは無かったと聞くが、私は、その意味で、文章が好きではないのだろう。

 文は人なり、というのを真に受け過ぎているのかもしれない。読むことに真剣過ぎるのかもしれない。書くことは、こんなに簡単に、いくらでも冗長に出来るのにもかかわらず。

 何を読むべきかについて、一時期、真剣に悩んでいた。『本の本』という本を買って、何をどうやって読み、それを記録し、批評や感想を書き、管理し、どうやって本棚を埋めていけばいいのか、そういう指南書だったような気がする。もう覚えていない。ただ、それが訳書で、翻訳したのが『思考の整理学』の外山滋比古だったということだけを覚えている。

 つまり、本を読むということは、殆どを忘れるということなのだろう。事実、殆どの内容を覚えていないのだ。しかし、全ての内容を一言一句理解するのは、大変骨の折れる作業で、また、その苦労を支払ってでも理解したいような本は、なかなか出会えないものだ。いわゆる「原典講読」という授業を大学で受けたことがあるが、読み終えた後の読後感こそ一入だったが、それ以外の何も理解した覚えはない。

 結局、私は、何を読むべきなのか、てんで見当がつかない。読む必要を感じないからだ。読むとは一体必要だろうと思うが、その必要に迫られていない。好きなように読めば良さそうなものだが、好きなように読むだけでは、意味がないとも思う。

 段々と深刻になって来た。無意味になって来た。

 ブログのルールについて。

 後悔と自責、反省と懺悔、「自己〇〇」の類の情念は、公の場で表現しない。それが、物を書く時のマナーだろう。

 これは、文章作法について、書き手のマナーについての話だ。