修士論文———ある青春、その別れ

 土着性。土。赤土。大地。根の張った感覚。しっかりと、この二本の足が、五本の指が、柔らかい土の湿り気を感じている。いずれ、遠くない将来、自分もこの土に還るという感覚を、この土の湿り気に感じる、その感覚。土とは、死である。良質な土とは、死んだ者の匂いがする。死んだ者。生きている者とは、まだ死んでいない者、これから死に往く者であり、それ以上でも以下でもない‥‥‥だろう。

 今日、「アーシーな生き方」という言葉をTwitterで見た。辞書で調べてみた。

 

earthy 【形容詞】

①〈(特に性・身体についての)言葉・ユーモアなどが〉あけすけな,粗野な,低俗な,洗練されていない.

②土の,土質の;〈色・感触・においなどが〉土のような.

 

 手触りを求めるとは、手触りを日々実感していないからだ。誤魔化しのきかない事態になるまで待つのは、ただの怠け癖のせいだけでもない。焦燥感の中に生の実感を求めているからだ。他人に迷惑を掛けることで初めて、断絶という形式のコミュニケーションを求めているのかもしれない。破壊的なことを求めているのかもしれない。

 土とは、手触りの異名である。何に、〈土〉を感じるか。身体性。或いは、想像力。泥臭いこと、よく練られていること、きびきびとしていること。何度も反復している内に、体の中に染み付いて、習癖となったもの。精神の形となったもの。そこには、形がなければならない。

 私にとって、最もそれに近い存在は、英語である。日本語(現代国語)よりも、英語、より限定的に言えば、Contemporary Englishである。更にそれは、英国の英語ではなく、米国のそれである。私は、被差別文学が好きだった。そして何より理解に苦しんだのが、恋愛小説だった。推理小説SF小説も全く好まなかった。私が好んで読んだのは、いつも私小説であって、半自伝的な小説であって、生活圏から一歩も出ない小説だった。怪談を好むのも、それは土着信仰のようなものがあるからだ。兎に角、私が文学に求めるのは、土着性であり、土着性に支えられた物語のリアリティであり、現実の困難との関わりである。反ロマン主義的な、ということだろう。それは、恐らく、文学趣味ではなく、私自身の人生観でもある。

 このような感受性が、一体どこからやって来て、私の中に棲みついたのか、思い当たる節が無い訳でもない。誤魔化さないということを美徳にしてみて、随分、自分のことが分かるようになった。自己批判にせよ、自己肯定にせよ、自己嫌悪にせよ、自己信頼にせよ、兎に角「自己」と冠されるような事柄には、懐疑心が宿るようになった。自己改良ということについて、殆ど信頼しないようになった。それは同時に、自己放棄ということや、自己犠牲ということの尊さということにも、それを口にした途端に崩れてしまいそうな、儚さというか、脆弱なものを感じるようになった。態度と自覚との関係は、それくらいギリギリの瀬戸際にあるべきだと、厳しさを求めるようになった。

 で、私は、困難なことから逃げないように心掛けて、案の定、挫けてしまった。不用意としか言いようのない。何か、私には、馬鹿げた正直さがある。愚直さがある。その愚かさを疎ましく思い、その愚かさに己自身の意味を見出している。愚かさとは何か。それは悪とは異なるようである。悪とは卑怯さであり、打算であり、先延ばしであり、偽りであり、策略であり、安逸であり、身勝手さであり、無責任であり、裏切りであり、誤魔化しであり、つまりは政治的な意識である。愚かさとは真面目さであり、素朴さであり、縋りつこうとする仕草であり、つまるところ精神的な様式美である。悪と愚かさが手を結ぶと、とんでもないことになる。反省すべきは悪の方であって、愚かさの方ではない。

 

 何が切実な問いであったのかを簡単に忘れてしまえることが、人間の強さであるというようなことを、私は否認しているのだろう。引っ掛かり続けることの愚かさは、免れないのだと観念する。諦め切れぬを諦めたというような事だろう。この女々しさである。

 

 この女々しさを自己として認め、ネチネチとした感じを洗い流したいと思う。どうにかして、何とかやっていくためには、行為が先になければならない。彼女は一歩も進めない。女々しい男として死ぬわけにはいかない。

 

 飛躍がなければならない。鳥餅のような心理である。俺はもう考えに考えた。考え尽くした。この干乾びた井戸の底には一滴の水も無い。

 

 語学の勉強をしていると落ち着きを取り戻す。それは、依拠すべきものが明確だからだろう。調べ方が分かるからだ。迷った時に、何を参照すればいいのか、どこに何が書いてあるのか分かるからだ。私が自分の語学力について一定の自信を持ち得る範囲は、自分の力量がどれほどかよく分かっているからで、どの辺りの文章なら何を参考にするべきか、誰に聞けばいいのか、その見極めに自信があるというだけである。

 

 或いは、一人の作家について、たまたま大学の指導教官に推薦された一人の作家について、未だに関わっているが、それもやはり、全集を読むということの価値を高く見積もっているからである。ドイツの諺であったと思うが、「自分のポケットの中のように」分かる、という、そういう感覚こそ、信頼という言葉が相応しい対象である。

 

 何かの振りをするのはもう止めよう。薄ら寒い嘘に身を固めるのはよそう。自分自身の卑しさ、厭らしさ、図太さ、不真面目さを切り捨てようとするのではなく、また、それに拘泥して、絡め捕られて、身動きが取れなくなるほどに自分を痛めつけることもなく、見過ごしておくのでもなく、凝視するのでもない、思い出としてとっておく、いつか思い出すときまで忘れておく、保管しておくことだ。

 

 一からやり直す、というような姿勢を止める。そんなことは出来はしないのだから。人生の意味や価値や目的を、何か一義的に定める様なことも止める。あらゆる意思とあらゆる行為に首尾一貫性と首尾一貫性だけを求め、尊ぶような、ドン・キホーテ的な生き方を止める。その場その場で、より良いと思われる判断を下し、自己判断に依らず、周囲の協力者に意見を仰ぐ。絶えず修正をする。想像する。身体性を重要視する。品のないことをしない。不用意な発言をしない。謙虚。楽なことばかりを考えない。人を虚仮にしない。物を大事に扱う。負い目を感じるべきだ。恥ずかしいと思うべきだ。後悔を止めるべきだ。後悔や自己批判を、今すぐに止めるべきだ。それは、後悔しない生き方をすべきだ、抜け目のない、慎重な、そんな子供じみたことではない。自虐的というのを一切やめるべきだ。独断専行というのも止めるべきだ。絶対性というものを、斥けるべきだ。

 

 この躊躇い、不貞腐れ、遣る瀬無さ。ということは、まだ俺は俺に未練があるのだろう。まだ、何とかなると思っているのだろう。自己に対する未練がまし感情を、いかにして綺麗に清算するのか。修士論文

 

 そうか。そうだった。修士論文

 

 修士論文と縁を切ろう。これで最後だ。この冬にケリをつける。2015年から始まった、この一本の論文。7年越しにケリをつける。

 

 それしか方法は無い。青春時代の終わりだ。